映画レビュー 999

映画の感想を次々書いて行きます。 ご意見ご感想もお待ちしてます。 映画について語れたら嬉しいです!

『スイートプールサイド』 水に流せないフェチズム

水に流せないフェチズム
 
あらすじ:高校1年になっても毛が生えないことに疑問を抱く太田年彦(須賀健太)は、同じ水泳部の毛深い女子、後藤綾子(刈谷友衣子)のことを、陰でうらやましいと感じていた。ある日、綾子に毛深いことを相談されその悩みを真剣に聞いていた彼は、「わたしの毛を、そってくれない?」と思いも寄らぬお願いをされ仰天する。それ以来、二人だけの秘密の関係がスタートする。
 
 
レビュー:フェチズムにこだわり作品を生み続ける押見修造先生の作品、『スイートプールサイド』は『アバンギャルド夢子』に次ぐフェチ作品となっている。
数年前に読んだ『アバンギャルド夢子』で押見修造ファンになったのだが、今でもこの作品の色鮮やかさは鮮明に心に残っている。ち○こを描きたい画家志望の女の子がそれを見るために奮闘する話しだ、シリアスとコメディの間で揺れる不安定さが1番の魅力。
『スイートプールサイド』では、体毛が薄いことに悩む少年と体毛が濃いことに悩む少女の物語だ。
このストーリーの発見でこの話しは3分の1、成功が見えている。
あとは、名作漫画から託されたバトンをゴールに持っていく映画の力が問われる。
 
映画の力はあったのか?
体毛が濃い女の子を演じた刈谷友衣子はヒロインとしては、可愛くなくて、当初疑問に思ったのだが、話しが進むにつれ、その無表情が変わる瞬間を演じ切っていて、魅力的に見えてくる。さらにどこと無く毛深そうに見える雰囲気が漂い見事なキャスティングとなっている。
 
映像的にフェチズムの表現を倍増させるために狙ったであろう。
須賀健太刈谷友衣子の毛を剃るシーンで入るイメージカット(森の中で木を愛でる)に関しては、効果的とは言えなかった。
イメージなのにあまりに現実的でその興奮、多幸感が感じられなかった。そもそもイメージシーンのせいで、気持ちが途切れてしまう。もっと役者を信用してもいいのではないかと思った。
 
ラストシーンの長回しは効果的に撮られていて、「行けるところまで長回しで行くぞ」という、制作者側の気持ちも伝わってくる名シーンとなっている。
 
水に流せないフェチズムの世界
原作の力を生かした秀作になっている。簡単に、水で流せないフェチズムの世界に浸ってみてはいかがしょうか。
 

 

スイートプールサイド [DVD]

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スイートプールサイド (講談社コミックス)

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『あの頃ペニー・レインと』 観察者が観察者であり続けようとすることの難しさ

観察者が観察者であり続けようとすることの難しさ

 

あらすじ:ブレイク寸前のロックバンド「スティルウォーター」のツアーの同行取材を任された15歳の少年ウィリアムの姿を描いた青春音楽ムービー。ウィリアムはグルーピーの少女、ペニー・レインに恋をしている、しかしペニー・レインはスティルウォーターのカリスマギターリスト、ラッセルと関係を持っている。バンド間にも様々な問題を抱えつつ全米ツアーは続いていく。第73回アカデミー賞脚本賞を受賞作品

 

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2000年公開のこの作品、最初に見たのはテレビの深夜放送だったことを覚えている。あの頃は、盛り上がりがピークに達しないのに何故か面白い作品だなぁと不思議に思ったことをよく覚えている。

数年ぶりに見たがあの時の印象そのままで盛り上がりがピークに達しないローテンションでどこか魅力的な作品だった。その不思議な魅力の1番のポイントは、主人公が観察者であることから醸しだされていると思う。

バンドを取材する、ウィリアムは世界の中心になることが無い存在で、それを望んでいる。たまに中心に近づきすぎて、ペニー・レインと接近するも、曖昧な笑顔で離れていく。それでいて、一切影響しないことは出来ない。

「ビーカーに入った水の温度を温度計で計ることは出来ない」この言葉を思い出した。

温度計の温度がビーカーに伝わって、正確な温度を計ることが出来ないと言う意味の言葉だ。

バンドに一切影響を与えることなく観察することは不可能である。

 

ラッセルはバンドを続けるのか?

ベニー・レインはモロッコでどんな生活を送るのか?

ウィリアムは雑誌ライターを続けるのか?

輝いていたあの時代、みんなが集まって世界が形成されるけど、その時間が過ぎるとそれぞれ別の場所へ移動する。そんな話しがすごく好きだ。

 

 

 

 

『岸辺の旅』 生きている“撮照録” 死んでいる人間

生きている“撮照録” 死んでいる人間
 
あらすじ:第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で監督賞を受賞した、黒沢清監督の作品。3年前に夫の優介(浅野忠信)が失踪した。妻の瑞希(深津絵里)は、その喪失感を経て、ようやくピアノを人に教える仕事を再開した。ある日、突然帰ってきた優介は「俺、死んだよ」と瑞希に告げる。「一緒に来ないか、きれいな場所があるんだ」との優介の言葉に瑞希は2人で旅に出る。それは優介が失踪からの3年間にお世話になった人々を訪ねていく旅だった。旅の中でお互いの深い愛を改めて感じていく2人だった。
 
 
レビュー:人物の出入り、カメラの動きは黒沢清作品なので承知はしていたが、光も動き音も動いていた。
浅野忠信が幽霊となって帰ってくる始めのシーンでは、カメラがスーっと動いて、他のカットを挟んでそこに居る。CGでフワッと出るのではなく、幽霊の登場は全てカット変わりで出てくる。そのシーンの窓外が真っ暗になっている。
通常は街灯や、内側の明かりなどが反射する。
小松政夫がいなくなるシーンでは、ベットの後ろのカラフルな切り抜いた紙の花を貼り付けた壁が、徐々に照明が当たり明るくなる。理屈は分からないがそうゆうことが起こる。
深津絵里村岡希美のシーンでは画面がスッと暗くなる、照明を暗くする事でそのシーンを作っているそうだが、このシーンは黒沢清監督のインタビューを読むと、理屈としては太陽が雲に入って暗くなる現象の再現らしい。実際に起こることでも、映画のルールから外れることがある。
カメラが動いて、人物が動いてスッーと構図に収まる。妹の話をしていると、どこからとも無く子供の声が聞こえる。子供は映らないが、画面外を強く意識できる構造になっている。
 
幽霊とはなにか?の定義が一般常識からずれているので、そこに興味をひかれる。幽霊を視覚的に表現する際は、生きている人間と幽霊の違いを見せる、それは、足がなかったり、透明だったり、視覚的な違いがあが、「岸辺の旅」に出てくる幽霊は視覚的にはまったく普通の人間と変わりがない。何も言わなければ普通の人間と見分けがつかない。
新作を作る度に、幽霊の新ルールを作り出す黒沢清監督。
作品ごとに、宇宙人のルールが違うスピルバーグに共通する部分も多く感じられる。

 

岸辺の旅 (文春文庫)

岸辺の旅 (文春文庫)

 

 

 
 

『スポンジ・ボブ/スクエアパンツ ザ・ムービー』 子供とは?大人とは?

子供とは?大人とは?

 

あらすじ:海底都市ビキニ・ボトムの人気ハンバーガーショップ、カニカーニの2号店がオープンすることに。2号店の店長の座を望むスポンジ・ボブは「子どもだから」という理由で昇進を拒否されてしまう。カニカーニの向にレストランを経営しているプランクトンはカニカーニの大繁盛をよく思っていない。プランクトンは悪巧みを実行に移す。ネプチューン王の王冠を盗んで、カーニさんに濡れ衣を着せるのだ。怒ったネプチューン王はカーニさんを冷凍にしてしまう。

カーニさんの無罪を証明するためスポンジボブとパトリックは王冠を探す旅に出る。

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レビュー:この映画子供向けアニメだと思っているかもしれないが、侮るなかれ、深い深い現代的なテーマが根底にある、大人も楽しめる映画になっている。この映画のテーマはずばり「大人とは?子供とは?」と言う投げかけだ。

ボブがカニカーニの店長に成れない理由は子供だから、ここで疑問に思うことはボブって子供だったの??むしろこの世界に子供や大人って概念あったの??という事。

ボブを子供と言い、店長にしなかったカーニさんとボブを比べてみたい。

カーニさん → 仕事をしている。

ボブ → 仕事をしている。

カニーさん → ボブより小さい

ボブ → カニーさんより大きい

人間界で言う大人と子供を分ける唯一の方法が年齢だがスポンジ・ボブの世界では公式的な見解がなく分からない。

つまり、人間界の常識、年齢が20歳以上になると大人。と言うルールが適応されていないことが分かる。

 

それでは何を基準に大人と子供を分けているのか?

それは、「グゥーフィーグーバー」の歌を歌うか、歌わないかだ。

大人は「グゥーフィーグーバー」の歌を歌わない。

ボブは大人になりたいから「グゥーフィーグーバー」の歌を歌いたい、気持ちを必死に堪えている。

この事から、人間界とは違う独自のルールが引かれていて、それが明確な新世界を形成していることが分かる。

まったく別のパラレルワールドで行われている事だけど、人間界と照らし合わせてみるとどうだろう。

 

大人と子供の線引きを年齢だけでしていいのだろうか?

選挙権を18歳に引き下げる議論も出ているし、成人式で大暴れする者もいる。

大人と子供の線引きを単に年齢だけでするのではなく、個人差なども考慮して、他の方法も考えた方がいいのでは無いだろうか?と言うスポンジ・ボブからの問題提起を感じ取る事ができる。スポンジ・ボブではある結論にたどりつくのだが…

 

社会的メッセージが隠されているスポンジ・ボブだが、小難しい事を考えなくても十分笑える良質なギャグアニメです。

 

 

スポンジ・ボブ スクエアパンツ ザ・ムービー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

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『バクマン』 時間経過とメタ構造 + 友情、努力、勝利

バクマン』 時間経過とメタ構造 + 友情、努力、勝利

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あらすじ:DEATH NOTE』の原作コンビ、大場つぐみ小畑健による週刊少年ジャンプでの連載を目指して漫画を描く高校生コンビの物語を『モテキ』の大根仁監督が実写映画化。優れた画力を持ちながら将来の展望もなく毎日を過ごしていた高校生の真城最高佐藤健)は、漫画原作家を志す高木秋人神木隆之介)から一緒に漫画家になろうと誘われる。当初は拒否していたものの声優志望のクラスメート亜豆美保への恋心をきっかけに、最高はプロの漫画家になることを決意。コンビを組んだ最高と秋人は週刊少年ジャンプ連載を目標に日々奮闘するが……。

 

レビュー:原作の漫画は途中までしか読んでいないが面白かった。いわゆる漫画家マンガ。

漫画家マンガとして1番に思い出すのは藤子不二雄先生の『まんが道』だと思うが、今は漫画家マンガブームと言っていいだろう。

『描かないマンガ家』『アオイホノオ』『かくかくしかじか』など人気作品が多く出ている。そんな昨今の漫画家マンガブームを牽引している作品がバクマン』だろう。

 

大根仁監督の手腕 時間経過

原作は面白かったが、映画となると少しハードルが高いのではないのかと思いながら見に行った。だが、いい意味で裏切られ、大根仁監督の手腕が光る良作となっている。

もの作り映画、あるいは、スポーツ映画は、作っていく過程(努力)の試行錯誤 が面白く無いと成立しない、その点漫画は描く行為が個人作業になることや動きが少ないことから映画として難しいのではないかと思った。

その難点を『バクマン』は上手に処理している。漫画を描くシーンは良質な音楽とちょっと工夫がある映像で上手に時間経過していた。この手法がブリッジ的に何度も入ってくるのだが、それが全てエモーショナルなシーンになっていて、飽きること無く見ることができる。サカナクションの音楽を選んだことも凄い。

映像に関してはどこかでみたことあるようなものなんだけど選ぶセンスが光っている。大根仁監督の前作モテキ』の森山未來がダンスをするシーンはまんま『(500)日のサマー』 の引用だったのだけど(本人も語っている)今回もその様なシーンが多くみられる。選ぶセンス組み合わせるセンスが大根監督はずば抜けている。 

■メタ構造 「漫画を描く」「漫画」を「映画」に

実在と虚実が入り混じっているので、知っている漫画が多数出てきて二重のメタ構造を作り上げていて、不思議な感覚に陥る。

 

小松菜奈の有り余る魅力

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『渇き』でその怪しい魅力に惹かれた。

今回はヒロインを演じているのだが、『渇き』では気づかなかった、演技の能力不足が露呈している。だが、それを差し引いても、有り余る魅力が彼女にはある。

 

■描かないことへの英断

高校生のお話で家族が1人も出てこないのは流石に違和感がある(叔父さんは出てくる)入院しているのに家族は来ないし、作業場に訳の分からないおっさんがたくさん出入りしているのに、家族は何の心配もしていない。

家族を描かないならば、描くシーンを限定しないと違和感がある。

 

■「友情」「努力」「勝利」

ジャンプ漫画の信念である「友情」「努力」「勝利」に、この映画自体が向かっていく構造もメタ的になっていて、面白かった。

そこに向かっていくだろうと、思わせておいて、ちゃんとそこに向かっていく気持ちよがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ダライ・ラマ14世』 わたしは普通の人間です

わたしは普通の人間です

 

あらすじ:観音菩薩の生まれ変わりとされる僧侶。ノーベル平和賞受賞者。神々しい肩書とともに、これだけ世界中で顔を知られている人は他にはいない。しかし、私たちは本当にこの人を知っているのだろうか。2歳にしてダライ・ラマ13世の転生者と認定され、ダライ・ラマ14世となったひとりの少年は、今では多くの人から尊敬され、一方では唾棄する人もいる、この世界において重要な存在となった。本作ではその人に東京の街頭で質問を募った。質問者にまっすぐに向き合い、真剣にユーモアたっぷりに答える姿から、ダライ・ラマ14世の素顔が見えてきた。

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技術的なことには一家言あるがドキュメンタリー映画なので言及しない。

今回は個人的な事を書きたいと思う。もう、このブログを書かなくなってからしばらく経つのだが書きたいから書くので一般的な映画評ではなく個人的な駄文になることをご了承頂きたい。

わたしはダライ・ラマのファンなのである。遡ること10数年前、この映画にも出てきたダラムサラに1週間程度滞在したことがあるのだ、その時にダライ・ラマと200人以上の僧侶が一斉にお経を唱える行事があり、それを見に行き、ダライ・ラマの姿を見て一気にファンになったのだ。

その時のダライ・ラマもこの映画に出てきた通り、気軽に一般人に話しかけ握手をして抱き合って言葉を交わす。わたしもここぞとばかり、ラマさんの体に触った。

生き神様、仏陀の生まれ変わりとも言われ、チベットの最高権力者で宗教的にもトップの人がこんなに気軽でフレンドリーでいいのかと驚きファンになった。

 

あの当時のことを思い出すと、バラナシでは朝日と共に起きて汚いガンジス川でパン1で沐浴して、ゲストハウスに帰って寝たり起きたり、昼間の暑さをなんとかやり過ごして、夕方になると、誰ともなく行きますか、なんて声を掛け合ってバングーラッシーを飲みに行く、ゲストハウスから歩いて5分くらいにある、その輪郭がハッキリしないバングーラッシー屋で、1杯飲んで帰ってくる。急いで帰らないとゲストハウスに着く前に回ってしまうので、帰りは少し早足。

ゲストハウスに戻ってしばらくすると、ぐーらぐら。しばらくすると、停電の時間だ。

停電になると電気が使えないのでみんな屋上に上がってくる。空を見ながら、近くの人と話したり話さなかったり、その内車座に座って回しだす。停電が終わってもすぐには室内に戻ることはなく、眠くなった人はぽつぽつと帰りだす。

そんなどうしようもなく最高な日々をしばらく続けていたらさすがに飽きてきて、旅立つことを決めて、ブッダガヤへ向かった。

ブッダガヤで仏陀が悟りを開いたと言われる菩提寺の下に座って1日を過ごし、のんびり日々が過ぎていき、帰国までしばらくあるが取り敢えずデリーに戻ってみた。

デリーで泊まっていた宿でバラナシで仲良くなった友達と再会、2人でだらだらしていると、チベット大好きおばちゃん登場そしてそのおばちゃんがダラムサラ行きを提案してくれた。

その出会いでダラムサラ行きが決まりダライ・ラマを生で見ることが出来た。

 

そんな運命的(と言うと言い過ぎかもしれないが)偶然が続いてダライ・ラマまでつながって、ラマさんの気さくで人間くさい雰囲気にふれて大ファンになってしまったのだ。

 

ファンなので映画も見に行く。

上映中、入り口付近で大きい音が響いた。扉を開いて光を入れるとおばさんが倒れている。様子を見ると取り敢えず大丈夫そうだったので入り口付近の席に座らせて続きを見ることに。

帰り道、数人の人だかりに痙攣した足が見える。それはただ事ではない感じ、救急車を呼ぶ工事現場の数人。自転車を傍らに置き声を掛ける倒れている人の知り合いと思われるおじさん。

立ち止まり様子を伺って手助けしようとしたがとりあえす、救急車が来るまで出来ることはなさそうだったので後にした。

あの人は大丈夫だっただろうか、痙攣が続いていて早く救急車が来ないと危ない状態だったと思う。

 

数時間の間に倒れる人を2人も見てしまって心臓が早鐘を打っている。

 

暗い部屋で小さい画面に向かってキーボードを叩く自分が恐ろしくなるほど狭い世界に生きている事が情けなくなってくる。自分は一体なにをやっているのだろう。

広い世界を見ないとダメだ。人の役に立つ人間にならないとダメだと心に強く思う1日だった。

 

生きることは諦める事、全ては偶然で出来ている空の考え(勉強不足かもしれない)と映画でも出てきた。

生きることは運命づけられている輪廻の考え(勉強不足かもしれない)がダライ・ラマをして、拮抗しており、ダライ・ラマ本人は普通の人間です。と輪廻を否定しつつも、輪廻の教えを苦しむ人達へ解いて行く。

宗教を超えて、生きることの矛盾をわかりやすい言葉で解いていくダライ・ラマの姿は心を打つものが有り、さらに好きになってしまった。

仏教を通じてダライ・ラマの望む良い世の中が早くやってくることを期待しています。

 

 

ダライ・ラマ自伝 (文春文庫)

ダライ・ラマ自伝 (文春文庫)

 

 

『アメージングスパイダーマン2』 これでいいのか?映画よ?

これでいいのか?映画よ・・・?

 

あらすじ:ピーター(アンドリュー・ガーフィールド)と恋人のグウェン(エマ・ストーン)の卒業式の日。ピーターはスパイダーマンとしてオズコープ社の電気技師・マックスを助け、マックスはスパイダーマンを敬愛するようになる。その頃、ピーターの幼なじみであるハリー・オズボーンがNYに戻り、巨大企業オズコープ社を継ごうとしていた。ある日、オズコープ社の事故によりマックスは電気を操る“エレクトロ”となってしまう。高校を卒業したピーターとグウェンはすれ違うようになっていく、グウェンはイギリスの大学に留学が決まり、ピーターは死んだ両親のことやグウェンのことで悩むようになる。

そこへ、エレクトロ(マックス)が現れ町で暴れる、ピーターはマックスであることに気づき説得するが、既に人間の心がないエレクトロには思いは通じず、力でエレクトロを倒す事になる。

囚われたエレクトロはオズコープ社の管理施設で監禁拷問を受けることとなる。

オズコープ社を継いだハリーは自分の病気を治すためにスパイダーマンの血を求めるようになり、写真を撮っていたピーターに相談する。ピーターは知り合いでは無いと否定するが、その晩スパイダーマンとしてハリーの元を訪れ、血を分けることはできないことを伝える。

荒れるハリーだったが、亡き父の残した形見によって、オズコープ社の地下に研究の内容が残されていることと、エレクトロの存在を発見する。

だがそれに気づかれたくないオズコープ社の重役によって会社を追放されてしまう。

オズコープ社を追放されたハリーはエレクトロの元へ行く、エレクトロとハリーはオズコープ社へ乗り込み、ハリーはスパイダーマン研究の薬を注射して、同時に開発していた軍事兵器を手にする。スパイダーマンへの恨みが募っていたエレクトロはスパイダーマンを探して町を破壊し続ける。そこへ、やってくるスパイダーマン再び対決する、エレクトロとスパイダーマンスパイダーマンとハリー。

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この話し相当めちゃくちゃです。

ストーリー展開はめちゃくちゃだし、お芝居は下手だし、好きよ、嫌いよってその間をすっ飛ばして、言葉だけで感情を表しちゃって正直お粗末なドラマになってるけどお構いなし。よくこの脚本で映画作成にGOサインが出たなと思う。

しかしアクションシーンの迫力には圧倒されるものがあって興奮しっぱなし、ギャグもなかなか冴えてる。携帯の着信音がスパイダーマンスパイダーマン♪だったり、ここぞってとこでいい感じに脱力させてくれる。

そんな軽めのスパイダーマンなのでツッコミどころ満載。

 

エレクトロ水に弱すぎ消防車の放水で倒れるなんて、電気なまずじゃないの?

スパイダーマンとなったピーターがオズコープ社でハリーと会うシーンなんて、絶対声でわかる。

ハリーが単身オズコープ社に乗り込むがオズコープ社、警備甘すぎ。あれなら誰でも入れる。

スパイダーマンとエレクトロの対決でグウェンが電気をスパイダーマンのタイミングで流すシーンでは装置にたどり着いたが鍵がかかっている。振り向くとそこに鍵が・・・そんな一瞬で発見できるなら、鍵がかかってる描写いらないだろう。

ハリーのけつポケットにスパイダーマンの仮面?赤い布の様なものがいつも入ってる。そんな大事なもの気軽につっこんでていいのかよ(笑

 

すべてギャグなのかなんなのか、ツッコミどころ満載のスパイダーマンだが、それを差し引いても興奮させてくれるアクションシーンでハリウッドの重役は勝機を見出したのだろう。マーク・ウェブの軽い語り口はサム・ライミの計算され尽くして隙の無い作り(シリーズ途中からやる気はなくなってると感じるが)とは違ってこれはこれで面白い。

賛否両論ある、グウェンの死はパート3への伏線だからしょうがない。

古今東西パート2は暗い展開になるのは決まっている。

 

これでいいのか?映画よ・・・? 面白ければいいんです・・・?

これを気にスパイダーマンシリーズを再見しようと思った。

適当スパイダーマンオススメです。